巨大河川が運ぶ土砂で造られたバングラデシュ・デルタ地帯の中で、チッタゴン丘陵地帯(Chittagong
Hill Tracts)はバングラデシュ東南部に位置し、バングラデシュ唯一の広大な山岳地帯です。バングラデシュ国土の10%にあたるこの場所では、古くからモンゴロイド系の先住民が焼き畑農業を中心とした生活を営み、多数民族であるベンガル人の文化とは異なった文化が営まれてきました。この地域に住む人々の起源についてはまだ不明な点が多く、インド北部、中国南部の地域から南下してきた種族とビルマ方面から北上してきた民族が入り混じって存在していると思われます。人口の一番多いチャクマ族に続き、マルマ族、ムル族など13の民族、約60万人がここで生活を今も営んでいます。
1777年には、英国の東インド会社の統治領となりますが、英国は納税だけし、基本的には現地の住民に統治を任せるといった「自治州」的な扱いを続きました。1900年にはベンガル人の土地の売買や居住を制限する法律も作られ、彼らの自治性がある程度確保されていました。
しかし、東パキスタン時代(1947年〜1971年)になると、政府との緊張関係が高まっていきました。1962年にはアメリカの援助でチャクマ族が多く住むランガマティ盆地に発電を目的としたダムが建設され、10万人近い先住民が移住を余儀なくされました。そのうち6万人は十分な補償が得られなかったと言われています。
バングラデシュ時代(1971年〜)には、先住民族のもつ文化や人権を無視する政府と先住民族の関係が悪化していきました。先住民族は政治的に対抗するため72年に政治団体であるチッタゴン丘陵人民連帯連合協会(Parbattya
Chattagram Jana Sambati Samiti, PCJSS)を結成、さらに73年にはシャンティ・バヒニ(平和軍)という武装部門が結成され、バングラデシュ政府軍と戦闘状態に入りました。この地域への外国人の立ち入りが禁止され、軍が日常的に駐屯し、紛争は92年の休戦宣言まで続きました。
さらに79年になると、政府は平野部のベンガル人を入植させる政策を進め、紛争は深刻度を増していく。83年までに約40万人近いベンガル人が政府からの土地、現金、食糧配給を前提に入植し、先住民族と入植者の数は、ほぼ1対1という状況にまでなってしまいました。ベンガル人の入植者の存在は、この地域の政治をさらに複雑にしました。
紛争の激化によって国外に一時非難した先住民族の土地をベンガル人入植者が不法占拠するケースも目立ち、土地を失った先住民族は12万世帯に上ると言われています。さらに入植者との小競り合いなどがきっかけになり、過去13回を超える虐殺事件が発生し、殺害を恐れて約6万人の先住民族がインドに逃れ難民になりました。問題解決がきちんとされない理由として、軍や警察の入植者への意識的な加担があるとされています。
和解を模索する話し合いが何度かもたれた末、1997年12月にPCJSSと政府の間で和平協定が結ばれました。難民の安全な帰還、土地の返還、軍の撤退、先住民族を優先した政治体制などを条件に、2,000人近いシャンティ・バヒニの投降が行なわれました。チッタゴン丘陵に平和が訪れるのではないかと多くの人は希望を持ちましたが、現時点に至っても和平協定の多くが実施されておらず、政府と先住民族との間の緊張感はまだ続いています。
さらに和平協定の内容に満足できず完全自治を求める先住民族がUPDF
(United People’s Democratic Front)を98年に結成し、先住民族の活動は二つに分断される形になりました。その後PCJSSとUPDFの間で、互いのリーダーを誘拐・殺人する報復合戦にまで状況が悪化し、和平協定完全実施のための先住民族の提言活動も効果をあげていません。
軍の撤退、入植者や土地の課題が片付かないまま、片方でUNDP(国連開発計画)やNGOなどの開発支援が進むという不安定な状況が続いています。最近も2003年8月26日にカグラチャリ県マハルチャリ村で
400軒の家がベンガル人入植者や軍関係者に焼かれる事件が発生し、政治は不透明な状況にあり、紛争再発の可能性も高まっています。
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